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旧K-1は何故終わったのか(1)

2000年代初頭までのK-1という団体は世界一の格闘技団体だったと今でも思っている。しかし、様々な問題を抱えたまま、旧K-1(便宜上今のK-1とは組織が違うので、旧K-1と記載させて頂く)は終わりを告げた。裏での契約不履行やお金の問題など、内部でも様々な事があった様だが、イチファンからの視点から見てもK-1は終わって当然だと思っていた。

今回は、何故旧K-1が失墜したのかを考えてみたいと思う。

K-1の選手構造

まず、何故K-1が流行したのかと言えば、そのわかりやすい構造にあったと思う。

毎年行われる「K-1 WORLD GP」に優勝する事が最大の栄誉であり、皆一堂にそこを目指すというわかりやすさ。

優勝経験を持つピーター・アーツアンディ・フグアーネスト・ホーストといったトップクラスの下に、初優勝を狙うマイク・ベルナルドジェロム・レ・バンナミルコ・クロコップといった魅力的なファイターが勢ぞろいしており、日本勢には佐竹雅昭や武蔵がいた。そして、たった1試合で彗星の如く現れるフランシスコ・フィリォマーク・ハントといった新たなスター等、ファイターそのものに視点が当てられていた様に思う。

そういう意味では、アンディ・フグが亡くなった2000年から、既に何かが崩れ始めていたのかもしれない。

過剰すぎる色物路線

こうしたファイター構造を破壊したのが、ボブ・サップであった。格闘技を知らない人でも間違いなく知っているファイターであろう。

日本に来た当初のサップのファイトスタイルはあまりにも、わかりやす過ぎた。元々アメフトの選手であるが故のフィジカルを活かし、というかフィジカルだけで相手をなぎ倒す。テクニックなど全く無かった。かつてボビー・オロゴンが格闘技に参戦した時に「最強の素人」という二つ名を持っていたが、どちらかと言えば「最強の素人」はサップに与えられるべき称号であった。

そんなサップが、あろうことかK-1の皇帝とも言うべき存在であったアーネスト・ホーストを2回も打ち破ってしまった。ここから、K-1は完全に壊れていった。

その後、モンスター路線の極みとも言うべき「曙VSボブ・サップ」が2003年の大みそかに組まれたが、結果は全く観客の期待に応える試合とはならず、これがK-1最後にして最大の花火となった。しかし、テレビの歴史においてはNHK紅白歌合戦を一時的に視聴率で抜いたというだけでも、やった意義はあったのかもしれない。

PRIDEの台頭

K-1が絶頂期だった時期に、ゆっくりとファンを集め始めていたのがPRIDEであった。

K-1がキックボクシングの団体であった事に対して、PRIDEは総合格闘技の団体。一番のポイントは、総合格闘技はその名の通り全ての格闘技を内包したといっても過言ではない格闘技の為、バックボーンがキックボクシングはもちろん、柔道、レスリング、プロレス何でも来いという何ともオールマイティな団体であった。

グレイシー柔術の使い手の黒船ヒクソン・グレイシーと、アントニオ猪木によるプロレス最強論を信じ続ける日本が送り出したプロレス代表の高田延彦による、1997年10月11日、1998年10月11日の試合はいずれも高田の惨敗となり「プロレスが死んだ日」と言われるが、これは「総合格闘技が生まれた日」でもあった。

その後藤田和之桜庭和志と言ったプロレスラーが総合格闘技に参加し、またK-1からはミルコ・クロコップが転向するなど様々な選手が集まり「PRIDE」という一つのジャンルを形成していった。

PRIDEも構造が面白かった。ミドル級にはヒクソンの兄弟達を次々と破り「グレイシーハンター」と呼ばれた桜庭和志がいて、その桜庭を完全に打ち破る王者ヴァンダレイ・シウバがいた。そのシウバを無差別級グランプリでハイキック一発で沈めたミルコ・クロコップ、そのミルコでも勝てなかった「皇帝」ヒョードル・・・トーナメント形式のK-1にはない魅力がPRIDEにはあったし、何より安易なモンスター路線に走らない強みがあった。

2000年代半ばには、世界最高の格闘技団体はK-1からPRIDEへと移り変わっていった。もう一度言うが、当時のPRIDEは世界最高の団体だったのだ・・・。誰が何と言おうとも。

 

なんかまとまらないので、続きはまた書きたいと思う。